昨年の秋、10年以上前から訪れたかった場所に足を運ぶことができました。

普段から世界中を旅している私にとっては(Googleマップで)、億劫になる程遠いわけでもなくて、行こうと思えば日帰りで行ける距離。

観光と呼ぶには無神経で、慰霊と呼ぶほどの大義もなく…それでも、少しだけ勇気を出し、そこにはリアルで行かなくてはいけない気がする。
そう思いながら行けずにいた場所が、宮城県石巻市の大川小学校跡でした。

東日本大震災の津波によって教職員と児童合わせて84名が亡くなったという悲しすぎる出来事があった土地。

前年の春に海辺の小さな小学校に入学し 、毎日楽しそうに登校する自分の娘と、被災した子どもたちが重なり、とりわけ強く印象に残っていました。

実は震災遺構大川小学校が一般公開されたのはわりと近年で、震災から10年ほど後の令和3年7月の事です。
当時の避難について学校側の対応や、その後の遺構の保存・展示をめぐって様々な議論がされており、児童遺族の訴訟では学校の防災体制の不備が認められ、遺構についても住民投票によって完全保存が決定されました。

三陸道河北ICを降り、左手に北上川の流れを見つつ、どことなく淋しげな道を河口に向かって車を走らせると、やがて学校職員が避難場所とした橋のたもとを経て大川小学校跡に着きます。

大型バスも入れる広い駐車場があり、道路を挟んだ学校の敷地は綺麗に整備されていて、真新しい慰霊碑と展示資料館があります。

周辺一帯は更地になっています。震災前は家屋が建ち並んでいたということが信じられません。住民にも親しまれ、学校の行事は地域のお祭りのようだったと聞くと、まさに娘の小学校のようで胸が苦しくなります。

校舎内には入れないので、柵に沿って一歩ずつ進みながら建物の様子を伺います。
破壊し尽くされて内部をあらわにした開口部、なぎ倒された鉄筋コンクリートの渡り廊下、2階の教室天井に残る浸水の跡…10年以上の時を経て整然と整備されていても、生々しい爪跡は津波の恐ろしさを伝えるに十分でした。

これほどの力が押し寄せる中で、大人を信じて従った子どもたちに何ができたのでしょうか。
もし自分の子どもがここに居たら…ほんと居なくて良かった。いや、良かったで済む話なのか?実際に子どもたちは居た。どこまでが運命で、どこまでが偶然なのか?処理しきれない感情が膨らみます。

敷地内では、亡くした娘の写真を見せながら学校の案内をする遺族の姿がありましたが、見ていられませんでした。

これは児童玄関前の金属板に記された文の一部です。

自然がつくりだしたこの世界で 未来をそうぞうし 生きることができるのが人間です
なぜ 一番大切なものが見えなくなるのかを考えてほしいのです
話しあうこと 考えること ともに確かめあうことで きっと あるべき未来は続いていくはずです

誰のものとも知れない文ですが、その中に多くの意味が込められるようにも感じます。

人間は未来へ向かって創造することができる。悲しみや苦しみをも想像し、感じて話し合い、考え、思いやれるからより良い未来を作ることができる。

この板がそう語ってくれるなら、石巻までの一人旅も意味があったような気がします。

(石巻焼きそば食べなかったのが心残り…)