2011年3月11日、午後2時46分。
私は釜石市の中心部に位置する病院ビルの8階にいた。
このまちの中間支援組織が開いた研修会に招かれ、私が講義を終えた直後であった。
突然轟音と共にすさまじい揺れが起きた。しかもその揺れはとてつもなく長く、このままではこのビルが崩壊するのも時間の問題だと感じていたが、いかんせん身体は硬直したままで動かなかった。
必死になってポケットからスマホを取り出し、周囲の写真を撮るのが精一杯だった。
揺れは一向に収まらないどころか、ますます酷くなっている。周りのみんなも柱やテーブルにしがみついたままの状態だ。

しばらくすると揺れはようやく収まった。
私は市内の状況を確認するために窓に駆け寄ったが、あれだけの大きな地震が起きたにも関わらず崩れているような建物は見当たらない。
なんだ、それほど大したことではなかったんだ、と安堵した。
ともかく一刻も早くこの建物から外に出ないと、またいつ大きな揺れが来るかわからないと感じていた。周りのみんなも同じ気持ちだったと思う。
全員が階段で1階まで駆け下り外に出た瞬間、今度は大津波警報の緊急放送と同時に、けたたましいサイレンが鳴った。
幸いにしてこのビルのすぐ近くに高台の公園があり、私たちは大津波の脅威というものを半信半疑で捉えながらもその高台に駆け上った。
その中には保育園の園児たちや病院の患者さんたち、近くの工場の従業員さんたちなど大勢の市民がいた。

その高台からは海がよく見えた。
5分ごとに起きる大きな余震に怯えながらしばらくすると、その海面が大きく膨張してくるのがわかった。
やがて大きな白波のラインが堤防を飲み込み、釜石の市街地に到達した。
建物が崩れ瓦礫がぶつかり合う音、車が横転する音、など例えようのない恐怖の音が街に響いた。
街の中を見下ろすと、まだ避難誘導する消防士の方々や、一般の市民が何人も道路上にいるのが見えた。
中には横断歩道を海側方向に渡ろうとするご老人の姿も見えた。
私たちは高台から必死になって叫んだ。「早く!早く!そっちじゃない!こっちだよ!高台に逃げるんだ!、津波はすぐそこなんだぞ!!」
しかしそんな声は空しくかき消されてしまうばかりだった….。

ここから先は皆さんも報道などを通じて充分ご存じのことだろう。
呆然とただ見つめる人、思わず泣き崩れる人などで高台の公園は異様な雰囲気に包まれていた。

今月は、1964年(昭和39年)に粟島沖を震源とする新潟地震が発生した月である。
私はまだ小学校に入学したばかりの時だった。
その時の体験談はまた別の機会でお伝えしたいと思うのだが、気になっているのは最近になって、また各地で大きな地震が立て続けに起きているという事実である。
いつまた何時、この村上周辺で発生するかわからない。
この日本という国に安全な場所は一つもないのである。
大切なのは過去の体験と教訓を忘れないことだ。
今すぐにでもやるべき備えをしておく必要があるのだと、自分に言い聞かせている。

3月11日 15:00頃(地震の直後)、
私たちが避難した 高台にある公園の入口

3月12日 早朝、前日と同じ場所から撮った 高台にある公園の入口