
今回は我が家の猫の話でもするつもりでしたが、年末に身近な3人が次々とがんの告知を受け、手術を受けることになり、また病気のことを考えざるを得ない状況になりました。
1人は、転移ではないけれど1回目のがんからちょうど5年目にまたのがん。ふつうならショックで落ち込むところ、初回もそうだったけれど、告知されても全く動じず、普通のことと受け止め、時には笑いに変え淡々としている。しかも医師は腹腔鏡の手術でと言っているのにあえて開腹手術を希望した強者。そんな彼女への私の役割は入院前に飲んで楽しい時間を共に過ごし、ただ「頑張ってねーー!!」と送り出し、元気になったらまた飲む、それだけ。私もがんになったらこうありたいと思う、理想のタイプ。
もう1人は結構慌てふためくタイプ。だから私は「こうこうこうだから、大丈夫だよ。」と科学的根拠を元に力づける。入院の準備の買い物を一緒にするとか、母親の通院介助を代わってあげるとか、実質的に力を貸して負担を軽くしてあげるのが私の役割。不安でいっぱいでも、なるようにしかならないよね、と自分に言い聞かせなんとか前向きにとらえて、変わらない日常生活を送ろうと頑張っている。
そしてもう1人は、とにかく悪い方にしかとらえない、最悪のことしか考えられないで鬱々と苦しんでいるタイプ。しかも医療人なのに。それこそちゃんと科学的に考えられないもんかね?と思いながらも、私にそんな気持ちを打ち明けてくれるので、受け止めてあげなくちゃと、傾聴に努める。でも、心の中では「なんで他の2人みたいに前向きにとらえて生きていけないかなぁ。そんなんじゃ治るものも治んないよ!!」と思ってるから、時々かけてあげる言葉も全く心に響いていないのはわかっていた。
そんな時、前から私からの話で彼女のことをちょっとばかり知っている娘に話したら言われた。
「○○さんは闘えばいいんだよ!受け止めるんじゃなくて闘うんだよ!だってそう生きてきた人じゃん!!」
そうだ!!彼女は常に自分を崖っぷちに追い込んでそこで踏ん張って生きてきたんだった。そこで頑張ることで自分の生きる意味、存在価値を確認して生きてきたんじゃなかったか。そんな彼女に、前向きにとらえて明るく生きていこうよ!なんて言葉が刺さるわけがなかった。そんな風に生きていけたらどんなに楽だろうと、彼女自身が一番思っているだろう。そうできない自分がいてなお苦しい。そんな彼女に娘の言葉を伝えた途端、両方の目から涙が溢れて流れた。楽に生きられない自分を認めてあげることができたからに違いないと私は思った。そして私も気づいた。彼女は今まで通り自分を崖っぷちに立たせてぎりぎりのところで闘えばいいんだ、それが彼女の生き方であり、がんに打ち勝つ術なんだ、と。
学生の時、がん患者に向き合うためにはキューブラー・ロスの「死ぬ瞬間」を読みなさい、と教員から薦められた。その頃はがんの告知イコール死の宣告だったので、自分が近い将来死ななければならないときの、人間の心理の過程を理解しなさい、ということだったろう。告知されてから、不安、恐怖、否定を経ての受容、そして希望。人間はたいていその様に同じような過程を辿る、そんな内容だったと思う。
でも今回しみじみと思った。告知をどうとらえ、どう受け止め、どう生きていくかは、人それぞれ、三者三様、十人十色。その人がどう生きてきたか、その生き方の数だけとらえ方があり、過程がある。
私は両親ともがんで亡くしている。しかも父は8人兄妹のうち亡くなった6人が全員がん。自他ともに認めるがん家系。私が30歳の時に父親が亡くなり、線香をあげに来てくれた同級生の男子が「オメががんになったら俺がコチョコチョしに行ってやるすけ、大丈夫だ~」と言ってくれたのをずっと信じている。本当にがん告知されたらどうなるかわからないけれど、私はそうやって笑って闘病したい。みんなに囲まれ、楽しく、オキシトシンを出してがん細胞の増殖を阻みたい。それが私の理想です。
次回は楽しくオキシトシンの話でもしたいところです。